鵜飼資料
330-27鵜飼遊楽図(左隻) 330-27鵜飼遊楽図(左隻)
六曲一双 江戸時代中期 紙本著色 160.5×359.26艘の鵜飼舟とそれを取り囲む観覧船を、左右隻それぞれに描く。 左隻の背景は秋景である。画面左半分に鵜飼舟6艘が並んでおり、流れの速い瀬を過ぎた場所で横並びになって共同して漁を行う様子が描かれている。観覧船はそれより下流で鵜飼舟を取り囲むように9艘が配置されている。
330-27鵜飼遊楽図(右隻) 330-27鵜飼遊楽図(右隻)
160.8×358.6右隻の背景は春景である。鵜飼舟を取り囲む観覧船に乗る人々の服装は多彩で、各々蒔絵を施した豪華な弁当箱や酒、茶などを用意し、時間をかけて鵜飼見物を楽しむ様子が描かれている。
333-29 長良川上覧鵜飼図 333-29 長良川上覧鵜飼図
狩野晴真筆 2幅
江戸時代後期 絹本著色
左幅 101.6×38.4 右 101.2×38.3天保14年(1843)に尾張藩12代藩主・徳川斉荘が岐阜を訪れた際に行われた上覧鵜飼を描いている。作者の狩野晴真(?~1862)は尾張藩御用絵師を勤めており、この鵜飼上覧の2年後に神谷姓から狩野姓を名乗るようになった。したがって、この作品は弘化2年(1845)以降に描かれたものである。
江戸時代初期から享保14年(1729)までは途中増減を経ながらも長良14名、小瀬7名の鵜匠がいたが、廃業などによりこの頃には長良7名、小瀬5名となっていた。しかし、藩主上覧の際には従前どおり長良と小瀬あわせて21艘で鵜飼を行うきまりであったため、左幅に11艘、右幅に10艘の計21艘鵜飼舟が描かれている。
左幅上部中央に貼られた金色の短冊は、この時に斉荘が記した「岐阜の道しるべ」に見られる句で、藩主自ら詠んだものである。右幅の句は確認されていない。
左「めづらしや吾妻にはまた長良川 鵜舟のかがり空にたなびく」
右「□□□□ほあかしと見ゆ長良川 鵜舟こき行かヽり火のかげ」333-5 公家遊楽図 333-5 公家遊楽図
六曲一隻 江戸時代 紙本著色
92.6×264.4邸内の池で2艘の舟が行う鵜飼を、御簾の内や縁に並んだ束帯姿の人々が見ている様子を描く。篝火が見られないことから、昼間に行っているのだろう。『源氏物語』の「藤裏葉」に、貴族の邸内の池で鵜飼を行わせ、それを眺める記述があり、平安時代にはアトラクションの一つとして見鵜飼が定着していたことが伺われる。公家たちの優雅な暮らしぶりを題材にした作品である。
画面向かって右の舟では、足に紐をつけた鵜を鵜匠が掌に乗せている。左の舟では鵜籠の上に1羽鵜が乗っているが、鵜匠が使っている鵜は1羽のみである。333-1 十二ヶ月花鳥図 333-1 十二ヶ月花鳥図
狩野洞雲筆
六曲一双 江戸時代中期 絹本著色
171.0×370.0 本図89.1×46.7洞雲(1625~1694)は探幽の養子で駿河台狩野家の初代。藤原定家の「詠花鳥和歌各十二首」をもとに各月の花と鳥を1図に描いた作品で12ヵ月1組となる。右隻左から1扇目に貼り込まれた本図は6月にあたり、常夏(撫子)と鵜を詠んだ句が書かれた料紙も貼られている。
333-4 十二ヶ月花鳥図 333-4 十二ヶ月花鳥図
狩野栄信筆
1巻 江戸時代後期 紙本著色
35.5×500.0 本図27.8×35.6栄信(1774~1828)は木挽町狩野家第8代。12枚の花鳥図のみを巻子に仕立てた作品である。本紙の形も、本図のような隅切の長方形のほか、楕円や扇形などがとりあわされている。
333-16 花鳥図 333-16 花鳥図
狩野洞益筆
2幅対のうち1幅 江戸時代後期 紙本著色19.7×22.0洞益(?~1841)は駿河台狩野家第6代。花と鳥を一対にして団扇の表裏に張った作品で、定家詠花鳥和歌を題材にした図柄と考えられる。現在は骨から矧がして掛幅装になっている。
330-4 十二ヶ月花鳥図 330-4 十二ヶ月花鳥図
月岡雪斎筆
1冊 江戸時代後期 絹本著色
45.5×27.0 本図36.8×18.3雪斎(?~1839)は大坂の画家。画帖の見開きごとに1カ月を表わしている。右側に藤原定家の「詠花鳥和歌各十二首」を書いた色紙を上下に、左側に花鳥図を貼り込む。6月の鳥である鵜には「短夜の鵜川にのぼる篝火の はやく過ぎ行く水無月の空」にあわせて鵜・舟・篝火を描き、鵜飼を暗示する。上の色紙は瞿麦(撫子)を詠んだもの。
330-20 鵜飼図 330-20 鵜飼図
松川半山筆
1幅 江戸時代後期 絹本著色
24.8×42.0半山(1818~1882)は大坂の浮世絵師。舳先にいる鵜匠は腰蓑を着け、頭には先を尖らせた風折烏帽子を被る現在と同じ装束である。舟の後方(艫)から2人目は鵜匠の見習いである中鵜使いで、3~4羽の鵜を操るが腰蓑や風折烏帽子は着用していない。舟の中には鵜籠や松明、捕った魚を入れる吐籠、諸蓋など用具も正確に描き込まれている。
331-60 鵜飼図 331-60 鵜飼図
高橋杏村筆
1幅 文久3年(1863) 絹本著色
35.4×58.9杏村(1804~1868)は安八郡神戸町の豪農で、中林竹洞に絵を学んだ南画家。本図ではほとんどの鵜匠が中腰で漁をしているが、座って鵜を操る姿も見られる。7艘のいずれの舟にも、船首に鵜匠、船尾に船頭、そして真ん中付近に鵜匠の補助者と思われるもう一人の計3人が描かれる。
351-6 長良川鵜飼図 351-6 長良川鵜飼図
村瀬雪峡筆
1幅 江戸時代後期~明治 絹本墨画淡彩
108.9×32.8雪峡(1830~1879)は武儀郡上有知の南画家。いずれの舟も鵜匠1人に船頭1人の2人乗りであり、船頭が鵜匠と同様に腰蓑を着け、頭に手拭を巻いた姿で表されている。
334-2 鵜飼図 334-2 鵜飼図
渡辺清筆 藤原持豊讃
1幅 江戸時代後期 絹本著色
33.8×55.4清(1776~1862)は復古土佐派を学んだ名古屋の画家。2艘の舟にそれぞれ鵜匠1人と船頭1人が乗り、共に腰蓑を着けてはいるが、被り物はしていない。岸辺に撫子らしき花が描かれており、十二ヶ月花鳥図を意識して描いたのであろうか。
「烏羽玉の夜河のうぶねさしつれて 早瀬をくだすかかり火の影」354-8 長良川鵜飼図 354-8 長良川鵜飼図
牧田種麿筆
一幅 江戸時代後期~明治 絹本著色
43.2×70.5鏡岩付近で漁をする7艘の鵜飼舟を描いたもので、それぞれに鵜匠、中乗り、中鵜使い、艫乗りが乗りこんでいる。鵜匠のみが腰蓑、胸当、風折烏帽子を着けており、中鵜使いは船頭と変わらぬ姿で少数の鵜を使っている。種麿(1835~1908)は岐阜に在住した土佐派の画家で、実景をもとに描いたのであろう。
350-49 長良川鮎鮨図 350-49 長良川鮎鮨図
1巻 明治時代 紙本著色
28.4×257.4将軍に献上する鮎鮨の調製を行う御鮨所を描く。鵜飼によって藍川(長良川)で魚を捕る場面からはじまり、川岸につけた鵜飼舟に御鮨所の下役が乗りこんで鮎を選別、官吏と御鮨元が待つ船ですぐさま調理が始まる、など手順も書き込まれている。江戸へ送る際の荷作りまでを描いているほか、尾張徳川家が贈答などに用いる焼干、ウルカなどの加工品も御鮨所内で製造していたことがわかる資料である。
350-3 美濃奇観 350-3 美濃奇観
池田崇広筆
1巻 明治時代 紙本著色
21.9×242.0明治13年(1880)に刊行された三浦千春著の版本「美濃奇観」挿絵の原画である。「鵜養の図」「鵜を使ふ図」「鵜匠手縄持たる図」「手縄乃図」「ロジの図」「鵜籠之図」「鵜飼船の図」「長良川眺望の図」からなり、用具などの名称や寸法、用法などを図示している。
354-21 長良川鵜飼之図 354-21 長良川鵜飼之図
川崎千虎筆 小出粲 序
1巻 明治21年(1888) 序文は明治26年 絹本著色
31.5×304.3明治21年に毛利元徳が鵜飼を見物した折の様子を、尾張出身の画家・川崎千虎(1836~1902)に描かせた図である。各船に4人ずつ乗った12艘の鵜飼舟が狩り下ってくる様子を、川下の大型屋形舟から見ている光景を高い視点から描いている。長良橋の上にも多くの人影が見られる。明治時代には、長良では通常7艘程度で鵜飼が行われていたはずだが、公爵の地位にあった元徳のために小瀬の5艘も加わった。
350-58 美濃飛騨両国魚漁之図(岐阜県管内漁業之図) 350-58 美濃飛騨両国魚漁之図(岐阜県管内漁業之図)
1帖 明治時代 紙本著色
表紙26.6×40.5 本図51.3×74.5大正3年(1914)公布の岐阜県漁業取締規則の「税務栞」付録として発行された「美濃飛騨両国漁業具及使用法」に収載する挿図の原本と思われる。岐阜県内における漁法調査に基づく57図を掲載しており、その第1号が本図である。7艘全てに鵜匠、中乗り、中鵜使い、艫乗りの4人が乗り、一番手前の舟に描かれた鵜匠は12羽、中鵜使いは4羽を使う。明治42年3月に掛図から画帖に装丁が変えられた。
350-21 鵜飼図 350-21 鵜飼図
佐々木尚文筆
1幅 近・現代 絹本著色
144.5×50.5尚文(1890~1970)は揖斐郡大野村出身で川合玉堂門下。舟べりにとまった鵜、舟の側板にあけた綱を結ぶ穴や鵜駕などに写実的表現が見られる一方で、狩衣姿で櫂を手にした船頭を描いた図柄は公家遊楽図を意識したとも考えられる。陽光に鮮やかな緑色の葉が照らされており、暗闇の中で行われるイメージが強い鵜飼とは対照的である。
350-64 鵜飼図 350-64 鵜飼図
佐々木尚文筆
1幅 近・現代 絹本著色
49.4×85.6鵜飼舟の造り、積み込まれた鵜籠などの用具、鵜匠の装束など、長良川鵜飼に取材して細部まで描き込まれている。わずかに波が描かれたのみで墨のぼかしで埋められた背景は、漆黒の闇の中で篝火だけをたよりに行われる鵜飼の様子をよく描き出している。
340-1 鵜遣図 340-1 鵜遣図
1枚 元禄3年(1690)
22.0×30.2『人倫訓蒙図彙 巻三』の第11丁裏と12丁表部分である。下段右に描かれた船頭と、左の鵜遣2人が向き合うように配置されている。上段に見える解説文は、猟師と綿師部分で、挿図とはあっていない。
画面奥の鵜遣は笠をかぶり、腰蓑をつけており、脇には魚籠が置かれている。その手前の舟上には鵜籠らしき竹籠が魚籠の横に置かれており、上には鵜が2羽とまっている。340-63 鵜飼図 340-63 鵜飼図
雪花楼北英画
1枚 江戸時代後期
36.7×25.3北英(?~1837ころ)は大坂の浮世絵師。「嶋ノ内ねり物」と「まつ屋恵む」と記した短冊掛に、「鵜飼」と記した扇子が掛かっている。謡曲「鵜飼」を題材にした作品である。
右手に松明をかかげ、腰蓑をつけた上に羽織る褐色の装束には、鵜籠と櫂を載せた鵜飼舟があしらわれている。340-38 尾張名所 岐阜鵜飼図 340-38 尾張名所 岐阜鵜飼図
素堂玉遷画
1冊 江戸時代後期
31.5×32.0玉遷(1791~1864)は名古屋の画家で、南画のほか浮世絵など多くの画風を学んだ。尾張の名所や祭20図を描いた団扇絵のうちの1枚。元和5年(1619)から尾張藩領であった岐阜からは鵜飼が選ばれている。
滝が流れ、岩場に松が茂る山際を5艘の鵜飼舟が狩り下っていく様子を描く。舟上には3人ずつ描かれているが、腰蓑を着けて働く鵜匠や船頭とは対照的に、中央に描かれた人物は煙草をふかすなどしてゆったりと過ごしている。340-64 濃州長良川鵜飼ノ図 340-64 濃州長良川鵜飼ノ図
1枚 江戸時代
29.7×26.1長良川左岸の鏡岩付近に屋形舟がおり、7艘の鵜飼舟が下ってくるのを乗船客が見ている様子を描く。鵜飼舟などの様子は簡略化されているが、屋形舟の中に提灯をさげたり、対岸の長良に鳥居や灯籠を描くなど、背景にも気を配った図様になっている。
340-77 濃州長良川鵜飼図 340-77 濃州長良川鵜飼図
1枚 江戸時代
37.6×48.8岐阜宇津保屋町の文淵堂から出された刷り物。7艘の鵜飼舟と観覧客をのせた屋形舟3艘が描かれる。鵜飼舟と屋形舟の配置や描写は異なるが、背景や掲載された地名に340-64図との類似が見られる。
文明5年(1473)に岐阜を訪れて鵜飼を見た一条兼良が詠んだ和歌「取あへぬ夜川の鮎のかゝりやき めづらとも見つ哀ともみつ」を掲載している。340-45 鵜飼船御遊図 340-45 鵜飼船御遊図
歌川豊国(三代)・国綱画
3枚続 嘉永5年(1852)8月
37.0×77.2画面左隅の背景に小さく「門人国綱画」とあることから、鵜飼部分は三代豊国(1786~1864)ではなく国綱(初代豊国の門人)が描いたものと思われる。篝火を焚いた6艘の鵜飼舟を、屋形舟の中から眺めて楽しむ風情を題材としている。舟の中央にいる者が諸蓋に魚を入れている様子など、鵜飼舟の中が詳細に描きこまれているが、「木曽路名所図会」の「長柄川鵜飼船」の挿絵を基にしている、との指摘がある。
340-2 風流五行之内 火性 340-2 風流五行之内 火性
歌川豊国(三代)・国久画
3枚続 元治元年(1864)
36.0×74.0篝火をさし、鵜匠と船頭、その補佐役の3人が乗りこんだ鵜飼舟が遠くで10艘以上漁をしている様子を、船の上で酒宴を開きながら眺めている図様である。
鵜飼部分を描いたのは初代豊国の門人・国久で、340-45図の背景に国綱が描いた鵜飼図を写したようである。340-44 今様源氏之内 月 鵜かひの夜遊宴 340-44 今様源氏之内 月 鵜かひの夜遊宴
歌川国周画
3枚続 安政4年(1857)
37.2×77.7国周(1835~1900)は江戸の浮世絵師。満月の夜に、水辺に突き出した桟敷や岸辺から鵜飼を眺める情景である。
片手に松明を持って水面にかざし、反対の手に手縄を持って2~3羽の鵜を使っている。手に松明を持って行う鵜飼は、現在では和歌山県有田市などで行われている徒歩鵜飼に見られる。褐色の漁服と腰蓑を身に着けたいでたち、漁法は340-78図と同じである。340-17 源氏君鵜飼御遊図 340-17 源氏君鵜飼御遊図
歌川国周画
3枚続 元治元年(1864)
35.0×72.0水辺に設けられた桟敷で酒宴を行いながら、裾をまくりあげた女性たちが1羽ずつ鵜を使って漁を行う様子を眺めている。鵜をつないだ手縄を口にくわえ、腰から下げて水に浮かべた魚籠を手繰り寄せる姿も見られる。階段の下からは捕った魚をざるに揚げて差し出しており、目の前で捕った魚を食べるのも楽しみの一つ、というところであろうか。
遠景の建物の提灯には明かりが灯っているようだが、漁をする女性たちは篝火を焚いておらず、空の下辺がほのかに赤いことなどから、夕暮れ時なのであろう。340-79 岐阻路ノ駅 河渡 長柄川鵜飼船 340-79 岐阻路ノ駅 河渡 長柄川鵜飼船
渓斎英泉画 保永堂板
1枚 江戸時代後期
24.0×36.6英泉(1791~1848)は江戸の浮世絵師。歌川広重との合作による木曽海道六拾九次シリーズ作品の1枚である。「木曽路名所図会」(641-1)の鵜飼図を参考に描かれた、との指摘もあるが、鵜匠が手拭のかわりに笠をかぶり、臑当てを着けるなど服装に違いが見られる。
葦の生えた岸辺近くに舟をよせており、鵜匠の傍らで船頭らしき人物が煙草をふかすなどゆったりとした雰囲気の中で鵜飼を行っている。340-78 木曽六十九駅 加納 340-78 木曽六十九駅 加納
歌川豊国(三代)画
1枚 弘化4~嘉永5年(1847~1852)
35.9×25.1木曽街道の69宿を描いた三代豊国のシリーズ作品の1つ。歌舞伎の日蓮記などで、殺生禁断の場に鵜を入れて捕えられる鵜飼勘作を加納宿に取り合わせている。
背景に描かれた鵜飼は、近景では松明を手に持ち、遠景では舳先に篝火を掲げて行われている。鵜匠の装束や、背景のうち手前の1艘以外を全て墨色のシルエットで表すなどの表現に、340-79図との類似が認められる。360-16 多摩川鵜飼図 360-16 多摩川鵜飼図
中島仰山画・田中芳男記
1枚 明治9年(1876)10月
25.1×37.2手縄をつけた鵜が鵜籠の上に乗った姿を手前に、後方には鵜を使って漁をする様子を描いている。鵜籠を貫く棒は、籠を運ぶためのものであろう。
武蔵多摩川の鵜飼は美濃長良川のそれと異なる漁法であり、明治9年10月8日に田中芳男が遊覧した実景を解説に記す。上流から下流に向かって2人が網を引いて魚を寄せ、網の中央で別の1人が2羽の鵜を遣って集まった魚を捕る。1日に2羽の鵜が捕る魚は、500匹余であったという。360-15 長良川鵜飼真景図 360-15 長良川鵜飼真景図
柳源吉画
1枚 明治時代
25.8×36.0長良橋上流の光景。川岸近くに並ぶ屋形舟の中に1艘だけ高く提灯を掲げた船が見られる。これは総がらみをリクエストした客が乗る船で、この提灯を目印に6艘の鵜飼舟は狩り下る。本図は総がらみが終わり、舟の向きを変えようとしているところであろう。
360-48 美濃国長良川烏鬼行之図 360-48 美濃国長良川烏鬼行之図
辻万峰画
1枚 明治15年(1882)
19.4×52.0旅館・十八楼がみやげ物として制作し、定価3銭5厘で販売したことが包み紙などからわかる。長良橋のすぐ下流、画面右端の川岸にある旅館から鵜飼を眺める客が、観覧船の客よりも大きく描かれているのはそのためであろう。
360-90 美濃国長良川烏鬼行之図 360-90 美濃国長良川烏鬼行之図
1枚 明治34年(1901)4月
39.0×53.1図の上部に記された松尾芭蕉の2句と「美濃国長良川烏鬼行之図」の文字は、大きさ・書体とも360-48と同じであり、文字部分のみをかぶせ彫りしたものと思われる。背景の山と長良橋、鵜飼舟の配置など、構図もほとんど変わらない。画面右の下流に7艘の鵜飼舟を、上流には鵜飼舟を追うような姿で屋形舟が3艘描かれている。
360-43 岐阜長良川鵜飼之図 360-43 岐阜長良川鵜飼之図
清水市郎画
1枚 明治22年(1889)
36.0×47.1発行・作画とも行った市郎は東京の人である。川岸近くで川上に鵜飼舟の船首が向いていることから、観覧船への総がらみの披露も終わり、岸辺に舟をつけようとしている情景を描いたと思われる。本作品が発行された明治22年は、長良川鵜飼が宮内省主猟寮所属の「鵜匠」となった年であり、その光景を広めるために東京でも出版したのであろう。
360-4 続昭和職業絵尽 鵜匠 360-4 続昭和職業絵尽 鵜匠
和田三造画
1枚 昭和29年(1954)11月
34.9×43.4三造(1883~1967)は様々な職業を描いた木版画を昭和初期からシリーズで制作しており、これは戦後のシリーズである。
屋内で鵜籠の上で手縄をつけているところを描いている。鵜匠が鵜の首をおさえ、半纏を着た船頭が縄をつけているようである。腰蓑、黒色の装束をつけて風折烏帽子を被った鵜匠の姿や「鵜」を染め抜いた半纏などから、長良川鵜飼をモデルに描いたものと思われる。360-36 鵜飼図 360-36 鵜飼図
ウィリー・ザイラー画
1枚 昭和
21.5×29.0ウィリー・ザイラー(Willy Seiler)は1903年ドイツ・ドレスデン生まれ。戦後日本に滞在しエッチングによる風景作品を多数発表した。本図は、手に松明を持った人物と舟べりにとまる6羽の鵜を描いている。小舟を用い、葦などの草を束ねた松明を使用していることから、九州筑後川の鵜飼に取材したものと思われる。
590-3 鐔 鵜匠図 590-3 鐔 鵜匠図
1枚 江戸時代
6.7×5.7×0.4刀装具には限られたスペースでありながら、魚をくわえた鵜、魚籠や鵜籠を載せた舟など細かいところまで表現されている。590-3や590-93などに見られる鵜を棒状のものに乗せて右肩に担ぐ図は、絵画資料などでは見られないものである。
590-114 縁頭 鵜飼図 590-114 縁頭 鵜飼図
越前大掾源長常(花押)
1組 江戸時代中期
縁3.7×2.3×1.2 頭3.4×1.9×0.9刀装具には限られたスペースでありながら、魚をくわえた鵜、魚籠や鵜籠を載せた舟など細かいところまで表現されている。
590-8 小柄 美濃名所長良川鵜飼図 590-8 小柄 美濃名所長良川鵜飼図
1口 江戸時代
刃長8.7 全長17.4 幅1.2刀装具には限られたスペースでありながら、魚をくわえた鵜、魚籠や鵜籠を載せた舟など細かいところまで表現されている。
590-80 縁頭 鵜飼図 590-80 縁頭 鵜飼図
1組 江戸時代
縁3.9×2.5×1.2 頭3.3×1.8×0.9刀装具刀装具には限られたスペースでありながら、魚をくわえた鵜、魚籠や鵜籠を載せた舟など細かいところまで表現されている。
590-93 目貫 鵜飼図 590-93 目貫 鵜飼図
1対 江戸時代
2.0×4.9×0.6 1.3×5.4×0.5刀装具には限られたスペースでありながら、魚をくわえた鵜、魚籠や鵜籠を載せた舟など細かいところまで表現されている。590-3や590-93などに見られる鵜を棒状のものに乗せて右肩に担ぐ図は、絵画資料などでは見られないものである。
540-1 鵜飼図印籠 540-1 鵜飼図印籠
1合 江戸時代
長径6.0×短径2.0×高6.02段の印籠。表裏両方に、腰蓑を着けた鵜匠と船頭が1人ずつ、大きな籠を載せた小舟に乗っている様子が描かれている。舟の舳先付近に焔が見えるのは、篝を掲げている様子を描いたのであろう。
711-14 鵜飼図長襦袢 711-14 鵜飼図長襦袢
1着
丈 137.6×裄66.0襟付が裾まで続く作りの、男性用麻製長襦袢である。3艘の鵜飼舟には風折烏帽子に漁服、腰蓑を着用した鵜匠が描かれており、長良川鵜飼に取材したものと思われる。
520-29 鵜飼図茶碗 520-29 鵜飼図茶碗
1口 近代
径15.2×高7.15艘の鵜飼舟と背景の山を、黒の濃淡だけで描いた茶碗。各鵜飼舟には4人ずつ乗っている。舳先に乗る人物はわずかに先のとがった被り物をし、手縄の先には鵜が点描で表されている。
520-37 鵜飼図煎茶具 520-37 鵜飼図煎茶具
福田旭水作 1揃 近代
茶碗 5口 径8.1×高4.6
茶銚 1口 径8.0×長さ12.5×高6.6
湯冷 1口 径9.0×高4.1福田旭水(1856~1928)は茶陶のほか日用品製作も手掛け、製品には「金華山」の判を押している。種類も豊富で、本作品のように鵜飼図を絵付けしたもののほか、鵜飼舟形の皿や鵜籠形の鉢など鵜飼用具を器の形に取り入れた作品も多い。
523-1 染付鵜飼図皿 523-1 染付鵜飼図皿
10枚 明治時代後期
径17.1×高2.43艘の鵜飼舟と橋、遠景に家並と山が表されている。観覧風の人物2人を乗せた舟も見られ、橋の上には人物がシルエットで表わされている。篝からたちのぼる焔の部分だけ赤く手彩色し、あとは摺りによる絵付けである。産地は不明だが、外側には笠や打出の小槌、丁子などの吉祥文様があしらわれており、523-4の大皿との類似が認められる。
523-4 染付鵜飼図大皿 523-4 染付鵜飼図大皿
1枚 明治時代後期
径27.5×高5.1現在の土岐市で作られた作品。遠景に山の間にかかった橋を、手前に5艘の鵜飼舟を描いている。大皿一杯に図柄を配置するため、川の流れに対して垂直方向に舟が描かれている。外側には笠と宝珠、分銅などの吉祥文様があしらわれている。
523-3 染付鵜飼図煎茶碗 523-3 染付鵜飼図煎茶碗
香山窯
5口組 明治時代後期
口径6.7×高4.3香山窯は土岐市土岐津町高山で明治時代に操業していた。切り立った岩と2艘の鵜飼舟、遠景の山と「岐阜藍川鵜飼之図」の題を入れているが、題の配置は作品によって異なっている。全て手彩色による絵付けをした作品で、篝火からあがる焔の中心だけをわずかに赤く彩色している。
722-3 岐阜提灯 鵜飼図 722-3 岐阜提灯 鵜飼図
大内行灯 1張 火袋径31.0 全高93.0
御所形 1張 火袋径30.0 全長81.0
豆提灯 1張 火袋径12.0 全長30.0
モビール 1張 火袋径7.0 全長21.0火袋に鵜飼図を摺り込んだ岐阜提灯の大内行灯、御所形、豆提灯と提灯モビールである。岐阜提灯は盆提灯としてのイメージが強いが、この図柄の提灯はいずれも土産品として観光客に好まれてきた。下絵を著名な画家に依頼するなど、各店独自の図様となっている。
721-1 岐阜団扇 721-1 岐阜団扇
漆塗り団扇 3点 昭和10年代 37.0×21.0
水団扇 2点 昭和10年代 39.7×22.0
渋団扇 1点 現代37.5×24.5
豆水団扇 6点 現代(紙は昭和40年代)24.5×12.0岐阜提灯同様、鵜飼観光土産品として好まれてきたため、鵜飼図が多く見られる。水団扇は透き通った扇面で涼感を出し、水に漬けても紙がはがれない丈夫な作りで、観覧船に乗って団扇を水につけてあおぎ、涼風を得る使い方もされた。
664-15 鵜飼図 664-15 鵜飼図
荻原井泉水筆
1幅 近・現代
35.6×47.3芭蕉作「十八楼の記」の1節である「入日の影も月にかはりて、波にむすぼるヽ篝火の影もやヽ近く、高欄のもとに鵜飼するなど、誠にめざましき見ものなりけらし」と「此のあたり目に見ゆるものハ皆涼し」の句をとりあげた俳画。鵜匠が笠をかぶるなど、実景とは異なる点も多い。
井泉水(1884~1955)は自由律俳句の提唱者であるが、芭蕉についての著作もある。663-20 和歌「鵜河」 663-20 和歌「鵜河」
黒田清綱書
1幅 大正4年(1915)
53.4×69.8「長良川ながるヽ水ももゆばかり かがり火たきて 鵜舟さす見ゆ」
黒田清綱(1830~1917)は、貴族院議員ののち宮内省御用掛をつとめ、大正天皇・皇后に和歌を指導したこともある歌人である。641-1 木曽路名所図会 巻之二のうち 「長柄川鵜飼船」 641-1 木曽路名所図会 巻之二のうち 「長柄川鵜飼船」
秋里籬島著・西邨中和画
全7冊 文化11年(1814)
25.5×17.8鵜飼を見て「かヽり火も涼し鵜縄の長柄川」籬島
「夕闇のほどを照して鵜飼舟 長柄の川をくだる篝火」八幡美済
手前に大きく金華山下の長良鵜飼を描き、左手奥の川のはるか上流に描かれた5艘の鵜飼舟は、小瀬鵜飼を表したものと思われる。鵜飼舟には3人ずつ乗り込んでおり、舳先には手ぬぐいをかぶって腰蓑をつけた鵜匠、艫には船頭がおり、2人の間にいる人物は捕った魚を諸蓋に並べたり、鵜を使う手伝いをしたりしている。舟の中の様子まで細かく描き込まれていることもあって、この図は浮世絵に見られる鵜飼図の原図としてよく用いられた。木訥庵90 江馬細香書簡 大野茂作宛 木訥庵90 江馬細香書簡 大野茂作宛
1通 江戸時代後期
16.3×69.6大垣の漢詩人・江馬細香(1787~1861)が、長良の真福寺村庄屋・大野茂作にあてた手紙。江戸からやってくる客に鵜飼をみせるため、観覧船を斡旋してくれるよう頼む内容である。江戸時代、鵜飼を見物する屋形舟がすでにあったことは絵画資料からも明らかだが、舟の調達方法などは不明である。親交のあった地元の人物に斡旋を依頼するのが手早かったのであろうか。
655-5 岐阜みやげ 655-5 岐阜みやげ
長瀬寛二著
1冊 明治23年(1890)
21.7×14.6岐阜市街のガイドブック。歴史や名所、産物の紹介をしている。全部で9図ある挿図のうち、掲載した「長良川鵜飼」のみに種麿の印が見られ、牧田種麿が描いたと思われる。7艘の舟それぞれに4人ずつ乗り込むなど、本文と齟齬のないよう描き込まれている。
653-26 鉄道旅行案内 653-26 鉄道旅行案内
鉄道省発行
1冊 大正13年(1924)
11.0×19.4鉄道営業案内のほか、沿線主要地の名所及び交通案内を掲載したもの。挿図は、吉田初三郎が描いている。岐阜県内を紹介する挿図では、岐阜の長良川鵜飼とともに木曽川鳥瞰図が掲載されており、鵜沼と対岸をむすぶ橋付近にも鵜飼が描かれる。岐阜の鵜飼について「鵜舟は1組5艘か7艘、舟毎に篝火を焚き・・」との記述があり、日によって出る鵜飼舟の数も異なっていたと思われる。
676-55 ながら川の鵜飼 676-55 ながら川の鵜飼
吉田初三郎画 岐阜市役所
1部 昭和初期
17.5×38.8鵜飼観覧に来るには、東海道線岐阜駅から美濃電気軌道に乗り換え、長良橋で下車するのが一般的であった。裏面には、東京・大阪・名古屋各鉄道局管内発売「鵜飼遊覧連絡乗車船券」の案内があり、観覧船を含めたパック割引料金が設定されている。
676-71 岐阜名所図絵 676-71 岐阜名所図絵
米内北斗画 岐阜市役所
1部 大正14年(1925)
表紙18.8×11.0 鳥瞰図 26.6×78.0内側の鳥瞰図には大正12年に岐阜保勝会が設置した納涼台が描かれ、その裏の「岐阜名所案内」に長良の鵜飼舟は7艘、遊覧船は大小数十艘ある、との記述が見られる。鵜飼は上弦には月が入ってから、下弦には月の出る前に行なわれ、それにあわせて遊覧船も出航した。
676-74 岐阜 676-74 岐阜
吉田初三郎画 岐阜市役所
1部 昭和6年(1931)
表紙18.7×11.7 鳥瞰図17.7×76.6裏の記述から、鵜飼は午後8時から10時半までの間に行っていたことがわかる。総がらみを見るには、乗船料とは別途に料金を払う必要があった。
676-41 岐阜 676-41 岐阜
しば山画 躍進日本大博覧会協賛会
1部 昭和11年(1936)
17.8×77.5昭和11年3月25日から5月15日にかけて岐阜公園で開催された躍進日本大博覧会にあわせて作られたパンフレット。表紙には、渓斎英泉の「岐阻路ノ駅 河渡」をアレンジして描いている。躍進博覧会では、会場内の忠節用水に設けられた実演場で昼間に鵜飼が行われた。
676-60 ながら川の鵜飼 676-60 ながら川の鵜飼
吉田義人画
1部 昭和初期
17.0×38.5吉田初三郎の「ながら川の鵜飼」パンフレット(676-55)とほぼ同じ内容で、鵜飼の歴史や漁法の解説にはじまり、遊覧についての案内を掲載している。
夜間に撮影した写真が多く使用されている点に特色がある。676-56 Tourist map of Gifu 676-56 Tourist map of Gifu
1部 36.4×52.3
OG1-79 NAGARAGAWA HOTEL
1部 24.0×35.3左は、戦前の岐阜市営長良川ホテルのパンフレット。外国人観光客等の便宜を図るため、昭和8年(1933)長良川畔に建設された本格的洋式ホテルであった。
右は、外国人観光客向けに作られた英文観光パンフレット。昭和39年(1964)の東京オリンピックを前に、英文のポスターや案内パンフレットが制作されたといい、この頃のものであろう。653-24 長良川うかひ 653-24 長良川うかひ
岐阜市役所
1冊 昭和5年(1930)発行
19.0×13.0 遊覧船使用料チラシ19.0×26.7鵜飼の歴史や用具、漁法のほか、遊覧船、納涼台などを説明した小冊子。鵜飼遊覧船使用料が付いており、5人乗りから50人乗りの大型船まで合わせて59艘もの遊覧船があったことがわかる。鵜飼遊覧船経営は昭和2年度に岐阜保勝会から岐阜市に移った。乗合船の料金には午前10時から午後4時までの昼料金があり、鵜飼を見るためだけでなく昼間の遊覧も行っていたことがわかる。
694-93 「岐阜の絵葉書」のうち「鵜飼と遊覧船」 694-180 「天下之奇観 岐阜の鵜飼」のうち「岐阜 鵜匠及鵜飼用具」 694-180 「天下之奇観 岐阜の鵜飼」のうち「岐阜 鵜匠及鵜飼用具」
濃陽館 1枚岐阜市神田町にあった旅館・濃陽館発行の絵葉書。山下幹司鵜匠とその船頭、中鵜使いが舟に積み込む用具を前にし、長良川右岸堤防に勢ぞろいしている。
694-180 「天下之奇観 岐阜の鵜飼」のうち「岐阜 長良川鵜の餌飼」 694-180 「天下之奇観 岐阜の鵜飼」のうち「岐阜 長良川鵜の餌飼」
濃陽館 1枚餌飼とは、鵜飼休漁期間中に鵜を養うため、川に連れて行き、自由に魚を捕食されることである。おそらく当絵はがきは、鵜が逃げないように川の中程に待機する鵜飼舟から撮影したものであろう。
694-60 「岐阜名勝御絵はがき」のうち「岐阜名所 長良川の鵜飼」 694-60 「岐阜名勝御絵はがき」のうち「岐阜名所 長良川の鵜飼」
吉田初三郎画 躍進日本大博覧会協賛会発行
1枚 昭和11年(1936)鳥瞰図を得意とする初三郎が描いたイラスト5枚組の絵はがきセットのうちの1枚。
OG1-78 躍進日本大博覧会 OG1-78 躍進日本大博覧会
躍進日本大博覧会発行
1枚 昭和10年(1935)昭和11年に岐阜市が主催して岐阜公園で開催された博覧会の絵はがきは、種類も豊富に作られた。消印から、前年夏にはすでに絵はがきセットが発行されてPRしていたことがわかる。博覧会では、会場内の忠節用水で昼間に鵜飼が行われた。
692-12 鵜飼観覧船事務所 692-12 鵜飼観覧船事務所
1枚 昭和30年(1955)ころ長良橋の下から撮影した岐阜市鵜飼観覧船事務所。昭和24年から62年まで使用された。同63年、この建物の一部を利用し、同じ場所に事務所が建て替えられた。
694-4 「金華山麓、長良川の清流 天下之奇観岐阜之鵜飼」のうち「岐阜 長良川遊船」 694-4 「金華山麓、長良川の清流 天下之奇観岐阜之鵜飼」のうち「岐阜 長良川遊船」
平木絵葉書店
1枚 大正時代「鵜飼ぶねよるをちぎればこれもまた おなじ江口のあそびなりける 一條兼良」
『藤川の記』に掲載された歌を右端にあしらっている。長良橋の下を通る遊覧船にはかなり大勢の観覧客が乗っており、このころあった50人乗りの観覧船を撮影したものであろう。当セットの中には大正13年まで存続した岐阜遊船株式会社が写った絵葉書も含まれる。823-6 鵜飼舟模型 長良川鵜飼1050年記念煙草 OG1-227 長良川鵜飼1050年記念煙草「光」1箱 7.0×4.3×1.8
OG1-228 長良川鵜飼1050年記念煙草「光」1箱 7.6×22.3×1.9
昭和26年(1951)延喜2年(902)に朝廷へ鮎を献上したのが長良川鵜飼のはじまり、との説に基づき、昭和26年に鵜飼1050年祭が開催された。鵜飼総合展、観光写真展などのイベントが開催され、同時に記念パッケージをつけた煙草「光」が名古屋専売局管内で発売された。