古地図資料
美濃国絵図 美濃国絵図
江戸時代後期国境の線や河川などをデフォルメ化した国絵図である。郡ごとに色分けを行い、町村名・山川・渡船場が記されている。尾張藩領をピンク、尾張藩領とその他の領主が混じった町村を赤、渡船場を黒い丸印で表現している。
尾濃両国地図 尾濃両国地図
江戸時代前期尾張藩領を示した絵図。美濃国の尾張藩領の町村には赤丸を付けているが、尾張国はすべて同藩領であるため印をつけていない。伊勢湾には海路と距離が書き込まれており、海洋交通の重要性がうかがえる。
尾張・三河・美濃・飛騨・木曽谷一円之図 美濃国厚見郡岐阜絵図并寺社 美濃国厚見郡岐阜絵図并寺社
江戸時代後期岐阜町とその周辺の村々を描いた絵図。黄色の部分が岐阜町および町場化した村を表す。江戸時代、町場は拡大していき、南側は岐阜町惣構えの土居を超えて鉄屋町、南東には東本願寺掛所を中心とした寺町、西隣の今泉村には下竹屋町など六町、鏡島村へ向かう街道に沿って忠節村、北には河原町などに及んだ。
濃州岐阜絵図 濃州岐阜絵図
江戸時代後期岐阜町とその周辺の村々を描いた絵図。赤色が道路、黄色が町場化した場所を表す。江戸時代、町場は拡大していき、南側は岐阜町惣構えの土居を超えて鉄屋町、南東には東本願寺掛所を中心とした寺町、西隣の今泉村には下竹屋町など六町、鏡島村へ向かう街道に沿って忠節村、北には河原町などに及んだ。
明屋敷村絵図 明屋敷村絵図
弘化2年(1845)明屋敷村は、岐阜町の西口付近で、現在の岐阜市四屋町・若松町などに当たり、岐阜が城下町であったころの家臣団居住地と伝えられている。上部の太い黒線は堤防。明屋敷村は、北東にも飛び地、法広寺「門前町」があり、岐阜町方と錯綜していたことが分かる。一軒ごとに居住者が記されており、軒割の税金を集める際に作成された絵図の可能性がある。
徳川斉荘岐阜御成時忠節村絵図 徳川斉荘岐阜御成時忠節村絵図
天保14年(1843)岐阜町周辺を治めていた尾張藩主徳川斉荘が、忠節村で大網漁見物をした際に作成された絵図。忠節村の家並みや波止場、警護役人の控え場所、対岸の早田村の河原に設けられた藩主の見物場所などが記されている。図の右端は明屋敷村につづき、その境目には忠節用水の取水口が描かれる。忠節村は岐阜町の西に位置し、家並みは連続していた。村境の木戸の部分が、起し絵図となっている。
長良三郷村絵図 長良三郷村絵図
19世紀上福光・中福光・真福寺の3ヵ村の絵図で、江戸時代にはまとめて「長良三郷」と呼ばれていた。北東の山は百々ヶ峰で、北西に鳥羽川、南に長良川が流れる。村の中央を南北に走るピンクの帯は高富方面に通じる街道で、長良川と接する場所は川湊であった。本図は、左下に「本田」などの石高が書かれ、字名が書かれていることから、長良三郷の生産力を把握するために作られたのであろう。
加納藩領図 加納藩領図
寛文8年(1688)以降戸田家時代の藩領域を描いた絵図で、黄色くぬられた村が加納藩領。ピンク・グレーの村は、寛文8年に5000石ずつを分け与えられて旗本となった藩主の弟二人の知行地であり、この絵図の作成年代が寛文8年以降であることがわかる。中央やや右を縦断する赤が中山道、右端をななめに走る赤線が美濃路。北西部から流れる席田用水、長良川から取水する忠節用水がはっきり表示され、北西部の岐礼や金華山などの山地が細やかに描かれる。絵の周囲には山年貢の高など、相給の村にはそれぞれの領主の石高が書かれており、年貢徴収などのために領内を把握する目的として作られた絵図と想定できる。
加納城下町絵図 加納城下町絵図
1700年ころ寛永16年(1639)から正徳元年(1711)まで加納藩主であった、戸田家時代の城下町絵図。元禄9年(1696)の大火ののちに設けられた広小路があることから、おおよその作成年代がわかる。加納城を囲むように白で描かれた武家屋敷がならび、中山道が町を横断し橙色の町人地が広がる。藩主からの拝領である武家屋敷には、区画ごとに名前が書かれており、その居住者が管理された。
濃州山県郡溝口村見取田畑絵図 濃州山県郡溝口村見取田畑絵図
宝暦7年(1757)見取田畑を把握するために作成された絵図。見取田畑とは、やせた土地や開発後間もない新田などで収穫が安定しない時に低額の年貢を納めた田畑のこと。本図には、田25筆、畑160筆、林14筆の土地が描かれている。溝口村は、三方を河川に囲まれており、耕地に恵まれていなかったようである。
濃州山県郡岩村絵図面 濃州山県郡岩村絵図面
天保7年(1836)村内をななめに流れるのは石田川、赤線は道、グレーは田、黄色が畑地と集落で家屋が書きこまれている。西側の山すそには溜め池があり、その南にあるのは岩村の領主である旗本松平家の陣屋跡。溜め池の西南に熊野神社・定恵寺、絵図中心付近に若宮八幡(八幡神社)が、堂や立木までこまやかに描かれている。これらの池や寺社は、現在でも同じ場所にその姿を見ることができる。
厚見郡古津村・方県郡志田見村、方県郡雄総村・真福寺村・上福光村山論裁許裏書絵図 厚見郡古津村・方県郡志田見村、方県郡雄総村・真福寺村・上福光村山論裁許裏書絵図
元禄13年(1700)幕府が作成した古津村など(尾張藩領)と雄総村(旗本青木家領)などの山論の裁許裏書絵図。古津村と志田見村は、古津村の両側の山を両村の入会山であると主張したが、一方の雄総村など三ヶ村は三ヶ村の入会山であると主張した。幕府の検使として笠松郡代の手代などが派遣され、検分したところ、古津村から山への通路がないなど、古津村の山利用には不審なところが認められ、古津村を除く四ヶ村の入会山とするようにと幕府より裁許が下った。入会山は、絵図の黒線で囲った部分である。
本邦一覧 本邦一覧
天保7年(1836) 西川満阿『本邦一覧』のうち、美濃国の絵図の箇所。『本邦一覧』は、津藩の学者山崎義故が著した『大日本輿地便覧』に誤りがあるとして、満阿が増補改訂したもの。日本全国の地図を描いた「分国」八巻と、地誌を書いた「図解」五巻から成る。「図解」は、江戸時代に広く読まれた秋里籬島の「名所図会」や「草分衣」という歌集は参考にまとめたとしている。
大日本輿地便覧